自決と粛清――フランス革命における死の政治文化
La Liberté ou la mort. Mourir en député 1792-1795, Paris, Tallandier, 2015, 368 p. ; traduit en japonais par le professeur Takashi KOI.
“自由か、しからずんば死か”――。
フランス革命の第三次議会、国民公会(1792-95)の人民代表者のうち約10%、100名近くが死刑、自死という非業の死を遂げた。
フランス革命史学の最高の継承者が「革命家たちの最期」の詳細な分析に基づいて明かす、“死を賭した政治参加”という革命の美学と、恐怖政治のもとでの“粛清”のメカニズム。
目次
日本の読者へ
序 論
第1章 国民公会,多数の死者を出した議会
第2章 ジロンド派から「プレリアルの殉教者たち」まで――党派的歴史研究
第3章 人民代表者の逮捕と告訴
第4章 「国民の剃刀」,それは屈辱的な死か
第5章 「ローマ人として死ぬ」,自殺の選択
第6章 人民代表者の殺害,それは国民に対する反逆罪,または尊属殺人か
第7章 英雄の死と追放された者の死
第8章 模範的な死の物語からパンテオンへの合祀まで
結 論
訳者解説(小井髙志)
原注
附録
1 1799年以前に不自然な死で亡くなった96名の人民代表者のリスト
2 1793年10月に死亡した23名のジロンド派,ミシュレとラマルティーヌの著作における彼らの出現頻度
3 逮捕を議会決定されたジロンド派代表者(議員)の1793年6月25日の状況
4 1793年6月から10月にかけてのジロンド派勾留者の移送(逮捕から死亡まで)
5 シルリの逮捕(1793年8月)
6 復元された或る物語
――憲兵メダにより1802年に陸軍大臣に宛てて出された『テルミドール9日の晩に起きた出来事についての歴史的概要』
7 死亡の登録
8 グラフ ①1793年から1795年までの代表者の死亡の年月日
②1793年から1795年までの代表者の処刑の年月日
③代表者の死亡の類型
主要人名索引
関連情報
フランス革命の第三次議会、1792年から1795年までの国民公会は、自然ではない死、すなわち非業の死を遂げた代議士を100名近く出しました。それは代議士の約10%にあたっています。彼らの大部分は死刑を宣告され、ギロチンにかけられたのでしたが、他の幾人かは、公開処刑の恥辱を受けるよりも自殺することを選び、他方、殺害されたり、勾留中や流刑中に、あるいは派遣任務中に死亡した代議士もいました。
それらのなかには、ロベスピエール、サン=ジュスト、ダントン、コンドルセ、ブリソ、ペション、そしてヴェルニョのような、とても良く知られている革命政治家が含まれていましたが、その他にも今日ではほとんど忘れられ、フランスの街路や広場にもその名を見出すことのできない、非業の死を遂げた代議士が何人もいました。だが彼らはみな、同じく、政治の必然的成り行きの結果と、司法の適用を受けて、亡くなったという共通の運命をたどった人々でありました。実は、これらすべての非業の死は、歴史の基本的問題に我々を立ち返らせてくれます。どうして党派の政治的対立は、勝者による敗者の政治的排除、さらには身体的除去にまで至ったのか。
(「日本の読者へ」より)
それらのなかには、ロベスピエール、サン=ジュスト、ダントン、コンドルセ、ブリソ、ペション、そしてヴェルニョのような、とても良く知られている革命政治家が含まれていましたが、その他にも今日ではほとんど忘れられ、フランスの街路や広場にもその名を見出すことのできない、非業の死を遂げた代議士が何人もいました。だが彼らはみな、同じく、政治の必然的成り行きの結果と、司法の適用を受けて、亡くなったという共通の運命をたどった人々でありました。実は、これらすべての非業の死は、歴史の基本的問題に我々を立ち返らせてくれます。どうして党派の政治的対立は、勝者による敗者の政治的排除、さらには身体的除去にまで至ったのか。
(「日本の読者へ」より)